ピーターパン
人は何時大人になったと自覚するのだろう? 夜更かしをした時、お酒を飲んだ時、目上の人間と対等に渡り合えた時。自覚する瞬間は人それぞれだが、物事がどうあれそのどれもが自身にとって大人へと変化した瞬間である事は間違いない。物事自体要は思い込みで、成人を迎え入れる節目は具体的な大人への変化のそれにはあたらない。ボク自身29歳にして「大人」と「子供」の狭間、正に「介在的存在」である。多数的にみれば29歳はもう立派な「大人」であって社会にとって万能でなければならないという見方が強い。夢、希望、信念とは掛け離れた所に追いやられしまう一歩手前のようなイメージがある。
例えるなら空を飛べないピーターパンはピーターパンであってピーターパンではないというシンドロームが形成されてしまう。些か被害妄想的ではあるが当事者にしてみればピーターパンはピーターパンだし飛べようが飛べまいがそれ以上も以下もない。重要なのは客観的認識と自身による認識との差異がそのような結果をもたらしてしまう。尊重すべきはもちろん当事者だが「時間」という概念が積み上げてきた「経験」を希薄にも濃厚にもさせる。故に人は脆く危うい。ゴム動力の飛行機を手元でギリギリまで巻き切るか、それともすぐに放り投げるか。レドームの先が何処を向こうと飛ばす事が肝心だ。ほとんどの人間はその方法を難しい本やら人様の能書きに頼り考える事を放棄する。
ただ「生きる」事は実に単純で非常に楽だ。思考の焦点を内から外に切り替え、システムに殉じるだけで解決する。レドーム本来の役割「空気抵抗の影響を防ぐ」所謂波風立てない日本人的保守思想に落ち着く。多数的である事を批判したい訳ではなく「大人」である事実が形式的、誇大的になりつつある現在、目に余る自我の開放が多数悪を生み出す結果となっている気がする。それこそ社会全体が「ピーターパンシンドローム」にかかっているようだ。家庭を持ち親になる事は大人認識への第一歩かもしれないが所詮環境による一要素であり内なる変革ではない。自身の腹の底を見つめ、見極めようと努め始めて本当の大人と呼べる存在になるのだ。あんなに簡単に遠くに飛ばす事の出来た飛行機は何時から飛ばなくなってしまったのだろう? そう考えられるうちはまだまだ介在的ピーターパンなのであろう。